【第7話】
「眠れなかった?大丈夫?」
明るく穏やかな声で、私は、夫に言われたとおりにコップに注いだ水を差し出した。ヒロさんからのメールを読んだ直後の鼻歌交じりの背中に話しかけられて凍り付いた背中には、まだ冷たさが残っていたけれど。それを隠すようなあからさまな優しさにはなっていないはずだ。
いつからだろう。夫に対しての感情に、柔らかさを感じなくなったのは。息子が生まれてからかもしれないけれど、子どもの存在や子育てが理由なのかは分からない。子どもがいなくても、年月が経てば、私の心の中で優しく温かい想いの花は枯れてしまっていた可能性は、じゅうぶんにある。
ただ、夫とは、特に仲が悪いというわけではない。バーの店長をしている夫は、午後から夜中にかけて働いており、朝は寝ていることが多いのだ。時折こうして起きてくるが、そんなときは、息子と三人で笑って朝食をとる。私たちのことを仲のいい夫婦だと思っている人も、周りにはたくさんいる。
家族の一員として、夫の仕事柄に合わせて、ほがらかな顔を作る術を、私は身に着けてきたのだろう。もしくは、表向きの人格を、もうひとり、自分の中で生み出しているのかもしれない。
どちらにしても、同じことだ。冷めている私が心の奥にいることは、私以外、誰も知らないのだから。夫は、「ウチは、たまにケンカもするけど、仲はいいんだ」と、バーのお客さんに言っている。五年前も、一週間前も、同じように。
《ヒロさん、こんにちは。
もう、雨はやんでいるかしら?今日こちらは、とってもいいお天気。
さっき、仕事帰りに、こんなきれいな青空が。写真、添付しますね。
ちょっと、ニュージーランドを思い出してしまいました。
あ、そういえば、ナスのレシピ、役に立ってよかったです。嬉しい!
今夜、私も作りました。》
ヒロさんには、息子が寝た後、家事を終えてからメールを書くことが多い。今夜も、何気ない言葉が続いていく。けれど、やはり、今夜も言えないだろう。私がシングルマザーではないということは。
(だって、嘘じゃなくなるから…)
そんな言い訳と共に引き出しの奥の離婚届けにそっと触れる。その下には、夫には内緒の銀行口座の通帳がある。
この離婚届と毎月増えていく貯蓄が、結婚して十五年、息子は十一歳になった今の私の、暫定的な結論だった。
目を閉じて離婚届の乾いた感触を確かめると、引き出しをそっと閉めて、ヒロさんへのメールの続きを書き始めた。
ほほか:主に日本向けに、女性の美容健康についてのコラム、女性向け恋愛小説等を執筆するフリーライター。外見の美よりも内面の健康と美しさにフォーカスして、より多くの女性が充実感とともに毎日を生きるサポートとなる文章がテーマ。2002年よりNZ在住。散歩、読書、動物とのたわむれ、ドラマと映画鑑賞が趣味。
◆題字・イラスト◆ はづき:イラスト、詩、カードリーディングを通じて癒しを伝えるヒーラー。すべての人の中に存在する「幸せを感じる力」を、温め育てるヒーリングを目指す。
Instaguram:nzhazuki┃w:malumaluhazuki.com
この記事はニュージーランドの日本語フリーペーパー「KIWI TIME Vol.97(2017年4月号)」に掲載されたものです。