この砂がぜんぶ落ちるまで(第8回)

 大島は、朝から幾度となく、砂時計をひっくり返していた。砂が落ちるのが、妙に速い気がする。

数日前、思わず抱きしめた夏芽から知らされたのは、婚約者の存在だった。若い頃に十年間同棲をしていた同い年の相手で、別れてから疎遠だったが、一年ほど前に再会したらしい。

 「同い年か…」
夏芽の、「でも、先生と会ったら、どうしていいのか分からなくなっちゃった」という言葉を思い出しつつも、ようやく五十代になる夏芽に対して、自分は六十代も中盤である事実が、否が応でも立ちはだかる。それは、単純に年齢差の問題ではなかった。人生のステージの違い…かもしれない。とはいえ、婚約者の存在を知るまでは、その違いは、頬に当たる風のように、目の前にあり続けながらも通り過ぎていたのだ。それをつまり、目を逸らすというのかもしれないが…。

 ため息交じりにまた砂時計をひっくり返した時、客がドアを開ける音に、大島の混沌はかき消された。


「これ、夏芽、好きなんじゃない?」
行きつけのレストランで、婚約者の藤岡が取り出したキャンドルスタンドを見た瞬間、夏芽はギョッとした。
「うん、いいね!」
可能な限り平静を装い、さり気なくどこで手に入れたのか問うと、やはり大島の店だった。それは、確かめるまでもないことである。なぜなら、大島と夏芽が一緒に選んで仕入れた品なのだから。藤岡は、夏芽もよく知っている大島の店の店内の様子を細かく話すと、「ほら、こんな感じ」と写真を見せた。
「撮ってくれたんだ。ありがとう」
藤岡からスマホを受け取り、五枚ほどの写真に目を通したとき、夏芽の指が止まった。
「ん?」
小さく呟き、気になる箇所にズームする。
「何か、欲しい物あった?」
藤岡が手元を覗き込んできたので、夏芽は急いで写真を元に戻し、「うん、いろいろ気になるから、写真を全部、私にもくれる?」とスマホを彼に返した。

自宅まで藤岡に送ってもらうと、夏芽は、靴を脱ぐよりも先に、藤岡からもらった写真を開いた。そして、気になった一枚を、改めてズームする。
「…うそでしょ」
レジ横の目立たない所に置かれている紙は、何かの検査結果らしい。そこには、夏芽の知らない肺の病気らしい病名が、記されていた。実際に病気を患っているかどうかは別として、検査が必要であったことは確かなようだ。

《先生、近いうちにお店に行ってもいい?》
しばらく迷って選んだ言葉を打ちながら、夏芽の指は震えていた。


 大島が何かの検査を受けたらしい紙が映りこんだ写真は、見返さなくても、夏芽の脳裏に鮮明に蘇る。迷った挙句、店に行っていいかと尋ねたメッセージは、その日のうちに読まれたようだったが、返信は、三日経ってもない。再会してから、日常的にやり取りをしていたわけではない。ただ、連絡をしたのに三日も返事がないのは、初めてだ。夏芽は、夕方に予定していたミーティングを無理矢理に昼過ぎに変更してもらい、早めに仕事を切り上げて大島の店へと向かった。返信がない以上、突然押し掛けることには躊躇がある。しかし、もう一通の連絡をするよりも、何もせずに待つよりも、夏芽の感情は、会いに行くことを選んだ。

 夕方近く、閉店間際の時刻に滑り込むように、夏芽は大島の店の前に着いた。
しかし、ドアは閉められ、照明も落とされている。店内がぼんやりと見えるだけの目の前の建物は、西日が作った影に、崩れながら吸い込まれていくかのように、夏芽の目には映った。

「…はぁ」
やはり何の受信も着信もないスマホを確認した夏芽は、目を閉じてシートに体を預けた。


「…ふぅ」
病院を出て車に戻り、三日前に夏芽から来た《先生、近いうちにお店に行ってもいい?》という短いメッセージを読み返した大島は、西日の眩しさに目を閉じてシートに体を預けた。

 雑貨の話も仕事の話もなく、唐突にそんなことを訊かれるのは、初めてだ。夏芽に会いたいというのは、自分自身に対して隠しようもないほどに、むき出しの欲望だった。しかし、互いの年齢、婚約者の存在。そして、ポケットに収まっている検査結果。気軽に《いつでも来い》と返せない理由もまた、むき出して転がされるように並んでいた。

《どうした?》
とひと言だけ打ってすぐ、削除した。三日も返信せずにこのひと言では、あまりにも雑である。

《返信が遅くなってごめん。もう、来ないほうがいいよ。結婚するんだから》
ゆっくりと言葉を選びながら、そう打って、しかし送信できないままに、大島はエンジンをかけた。


 自宅マンションの駐車場に到着してシートベルトを外すと、夏芽は、身体の解放感と反比例して心が締め付けられるのを感じ、長い息を吐いた。そして、一気に大きく息を吸い込んだとき、メッセージを受信したスマホがバッグの中で震える。

急いで取り出す夏芽の視界を占領したのは、《返信が遅くなってごめん。もう、来ないほうがいいよ。》という、たった二文の、大島からの返事だった。

<続く>

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