ニュージーランドのワインを日本に輸入し、卸と販売を行っている「SHUNABE(シュナベ)」。今年で11年目を迎える同社代表の阿部俊氏に、創業に至るまでの経緯とイベントなどの取り組みについて話を伺った。
阿部氏は、「人の心に『灯』をつける」を経営方針として掲げ、事業を展開している。
「自らの常識や知識を超える新しいモノや事柄に出会った時、『雷に打たれる』という表現を使いますよね。ワインの飲み手も同様の表現を使うときがあります。この『雷に打たれる』ような、とてつもない衝撃を「SHUNABE」の事業の柱として、ワインの垣根を越えてお客様にお届けできれば、と思っています。
お客様にはワインの味わいだけでなく、その裏側にあるストーリーも伝えることで、目、耳、鼻、口などのさまざまな感覚から入ってくる『雷』を感じていただけるような「きっかけ」をお届けしていきたい。そしてそれが、その人の心を燈す『灯』となると信じています」
同社ウェブサイト上でも「売る側のエゴを押し付けるのではなく、生産者の想いを伝えたり、お客様にいろいろなワインを飲んでいただいて、ご自身に合ったワインを見つけていただいたり、飲み方を見つけていただいたりすることをお助けできればと考えています」と述べている。
2009年の創業から11年経つが、阿部氏はニュージーランドの大学を卒業し、そのまま母校に勤務していたこともあり、合計22年もの間、NZと日本を行き来していることになる。大学職員だった阿部氏が、いったいどのような経緯で、日本でワインの輸入業を始めることになったのだろうか。
阿部氏が高校生の17歳から18歳にかけて、将来について先が見えずに悩んでいたという。幸いにも高校の先生が心の支え、大きな助けとなり、無事に卒業することができたそうだ。そして卒業後、阿部氏の叔父が住むブラジル・サンパウロを尋ねたという。
「母方の家系は海外に滞在している親戚が多く、叔父はブラジルへ移住し、従姉妹はクライストチャーチに嫁ぎました。ODA関連の建設の仕事でアフリカや中国、ブラジルなどへ行った叔父もいまして、家系的にも海外へ行くこと自体に、抵抗はなかったです。
ブラジルの叔父は日本を離れて40年近くなるにも関わらず、『文藝春秋』を欠かさず読んでいたので日本について詳しく知っていました。叔父からは笑うこと、そして楽しむことを学びました。そしてアマゾンのことや、貧困の子供達、危険な銃のことなど、日本では経験できないことをたくさん教えてくれました」
ブラジルから帰国した阿部氏は、海外から日本を見てみたいと思い始めたそうだ。そうなると外国語も学ばないといけない。中国語や韓国語、英語やポルトガル語、スペイン語など、さまざまな国や言語がある中で、阿部氏の父親が見つけたのは英語が言語のニュージーランド。そして北島パーマストンノースに位置するIPCインターナショナル・パシフィック大学(現在は国際大学IPU New Zealand)に入学することになる。
1997年4月に学生ビザを取得して渡航、IPCを卒業後、別の大学に再入学するも中退し、母校のIPCで学生をサポートする大学職員として2007年まで勤務を続けたそうだ。
NZ滞在時の楽しかった思い出や苦労したことなどを尋ねてみた。
「どんな生活をしていたんでしょうかね、いろいろありすぎて(笑)。とにかく、自由に、やりたい放題やっていました。楽しいこと、危ないこと。楽しすぎたり、悲しかったり、怒りに震えたり、嬉しかったり、はち切れんばかりの恋愛をしたり、陸上の練習に明け暮れすぎたり、トーストマーティンボロー(ワインと音楽の祭典)で記憶が飛ぶほど飲んだくれたり、アジアンギャングとか言われたり……なかなか経験できないことかもしれないですね。とにかく貪欲に、興味をちょっとでも持ったら、必ずやってみる。実際に行ってみる。常に新しい人に出会って、刺激を受けていたように思います。
NZへ渡航する前、同い年の従姉妹から、『俊君は良いな~』と言われた一言が印象的でした。彼女は、頭が良くて、日本の名だたる大学に現役で入学し、海外留学を希望していました。しかし、その希望は叶いませんでした。その反面、自分は一人っ子で両親共働き、彼女より比較的選択肢に余裕があったので、NZへ留学をすることができました。彼女が発した『俊君は良いな~』と言った言葉が重く、『俺は、彼女より頭が悪いのに、恵まれている。本当なら、行きたい人が行くべきだけど、さまざまな理由で行けない人もいる。だから、その分貪欲に、NZでたくさんの経験をしてこよう』と思いました。母親からも、NZヘ行く前に『NZの空気、たくさん吸っておいで』と言われました。そうしたことから、とにかくなんでもやろうと決意できたのでしょう」
滞在先のパーマストンノースで「A Classy Palmy Boy」と呼ばれた阿部氏、Palmerston North Athletic and Harrier Clubのトレーニングコーチと共に陸上に打ち込んだほか、FMラジオ局「マッセイ大学コミュニティーラジオ(FM99.4)」では、深夜ラジオで自分の番組を持ちDJをしたり、時には愛車1972年式 HQ Holden Kingswoodで旅をしたり、NZビールを浴びるほど飲んだりして、思う存分楽しんだという。マナワツ・ワインクラブの創設者であるグラント・バーネット氏と出会ったのもこの頃だ。そしてNZワインへの情熱は現在に至るまで続くことになる。
「言葉が通じなくとも酒呑みの意思疎通は世界共通、NZ現地ではマナワツ・ワインクラブに所属していました。クラブのオーナー邸で、初めて飲ませてもらったボジョレーヌーボーに衝撃を受け、これを日本人が、こぞって¥2,000代で買うのであれば、NZワインは日本で絶対売れる。NZワインの方が美味しい。日本人にもっと知ってほしいと思うようになりました」
ワインクラブで知り合い、交流を深めていった醸造家やワイナリーのオーナー達との出会い。飲むだけではなく、ブドウの収穫や鳥よけ用の網がけ、仕込みなど、ワイン造りの手伝いをするようになった阿部氏は、ワイン醸造を目の当たりにし、飲む前に繰り広げられる、造り手の情熱的なドラマを肌で感じ、ワインに対する熱い想いが、ますます膨らんでいくのを感じていたそうだ。そしてそのワインが、日本へまだ輸出されていないという現実にも。
「ビジネスパートナーでもある、アルファドームス社(alphadomus.co.nz)のポール・ハム社長との出会いは、自分の中でとても大きなことでしたね。酒通として知られるIPCの大橋理事長にもお酒のことをたくさん教えていただきました。そもそもIPCに入学しなければ、大橋理事長にもお会いしていなければ、お酒を酌み交わすこともなかったと思います。NZでは日本にいたら通常とても会う事が出来ないような方々に出会えました。
NZ生活も10年いれば、もう十分かなと思い始めていた2007年頃、ずっと身に着けていたマオリのボーンカーヴィングがサーフィン中かけてしまった時に『そろそろ、NZ生活も潮時かもな……』と思いました。それがすべてのきっかけではないですが、一人っ子だったこともあり、いずれは、日本には戻らなければ…とは思っておりました。ワイン関係で何かできないか、フランスへ行ってみようか、なども考えましたが、まず生まれた街、埼玉県三郷市へ戻りました」
帰国後もNZワインのおいしさやワイナリーのオーナーの言葉が頭の片隅にあり、彼らのワインを日本に持ってきて、多くの方に飲んでもらうことができないかと、不意に思ったという。そして2008年6月、地元三郷にて友人を招いて「NZワイン会」を開催。これが発端となり、現在もワイン会は続けられており、「三郷ワイン会」の呼称で、毎月第2土曜日に開催されている。2020年4月の時点では128回目の開催、その他にも取引先飲食店において、定期的にワイン会を開催しているそうだ。
2009年9月、生まれ故郷の埼玉・三郷で「SHUNABE (シュナベ)」を創業。NZでは名前のシュン『SHUN』とアベ『ABE』をつなげた「シュナべ」や「シュナービィ」と呼ばれていたので、それをそのまま屋号にしたという。
「前職が大学の職員でしたので、商売はやった事がありませんでした。NZから帰国して、まず、同級生の弁護士に相談しました。すると、『ワインを日本に輸入するなら、日本でお酒の販売の免許が必要らしいよ』と……。免許が必要なことすら知りませんでした。お酒の免許は、所轄の税務署に問い合わせる事ができるとのことで、まずは税務署へ行ってみました。当時の窓口でのやりとりは、今でも鮮明に覚えています。
職員:阿部さん、お酒の販売のご経験は?
阿部:ないです。
職員:では、阿部さんのお酒の販売の免許は取れませんね。
阿部:……どうしてですか?
職員:お酒の販売経験が3年以上ないと、取ることはできません。
途方にくれました、やっぱり無理なのか……。
一度は断念しようと思いましたが、あきらめきれず、いろいろと模索していると、お酒の販売の免許申請は誰でもできる、という情報を入手。自ら国税庁のホームページで申請の手引きをダウンロードして、四苦八苦しながら記入し、ダメもとで申請書を提出しました。すると事態は一変!今度は、県の酒税部門の担当官が、指導に付いてくださり、そこから販売に向けて一気に進み始めました。まずは一番取得しやすい、通信販売業の免許の申請をして、お酒の販売業の許可を得ることができました。一度は無理と言われた酒販免許も取得することができ、2009年の夏、ニュージーランド産のワインを輸入されているインポーターさんのコンテナに同載させていただき、私が初めて輸入したワインが東京港に到着しました」
個人で通関の手続き開始
初めてワインを輸入した後の2回目、3回目の通関手続きも、通関業者にお願いしたそうだ。
「4回目の輸入の時、10トンのワインを輸入することになり、東京税関にどうしても問い合わせなくてはいけない事項が出てきました。東京税関へ行くと職員さんに、『阿部さんご自身でも、個人通関で手続きできますよ』とご指導いただき、自分で通関することにしました。
通関業務は業者が行うものと思っていましたが、自分でできるのであれば、やれるところまでやってみようと決意。自ら通関する事ができたのは良かったのですが、その先で思わぬ落とし穴が……。
通関手続きが済み、その数日後のこと。弊社倉庫のドライバーさんとワイン引取りのために、保管されている港の保税倉庫へ向かいました。すると……
職員:無料保管期間が過ぎているため、保管料を3日分いただきます。
阿部:……?
保税倉庫では、無料保管期間というものが存在し、その期間を過ぎると一日1パレットごとに保管費が発生することを知らなかったのです。10トンの輸入……1日当たりの保管料が10万円、この日はすでに無料保管期間が3日過ぎ、計30万円の請求でした……良いレッスンになりました。
そのおかげで、無料保管期間に絶対に通関、引き取り業務を完了しなくてはいけないので、ワインが船に搭載された時の通知を受けると、本当にピリピリします」
そして今回のCOVID-19の世界的規模の感染拡大。新たな困難に直面することになった業界業種は数知れない。「SHUNABE」も例外ではない。
「通常、輸入するために数ヶ月前から生産者と数量の調整をして、現地コンテナ船に載せる算段をします。品物がコンテナ船に積まれ、NZから東京港まで搬送される場合は約2週間、南アフリカなどからは約40日かけて東京港にくるのですが、今回の『新型コロナウィルス』の影響は大で、4月にこのような状態になるとは、2月や1月の段階では、知る由もないのです。
4月6日の政府による自粛要請後、人口の多い首都圏のオフィスには人の往来がなくなり、それに紐付けされて、営業していた飲食店さんは、いきなり売上がなくなりました。そして都内の飲食店さん相手の弊社も、売上が下がるという負の連鎖になりました。
弊社の場合は、都内にオフィスを持っていたり、倉庫を湾岸沿いの名だたる倉庫会社さんにワインを預けている訳ではないので、現金の余裕がわずかにありましたが、それでも追加融資を受けざるを得ませんでした。税関は、納税の猶予は銀行の担保保証がないとできないということで、保税倉庫の3営業日以内の無料保管期間内には、その担保の手続きをしている余裕がなかったので、泣く泣くかき集めの現金で、なんとか輸入納税ができたという状況でした」
「そのワインを飲めば、だいたいどのようなワインかはわかります。ただ、取引先のワイナリーを選ぶ基準は、最終的にはオーナーや醸造家、そこで働いている人的な要素が大きいと思います。日本語の造語で『和醸良酒』(わじょうりょうしゅ)という言葉がありまして、和は良酒を醸すと。どんなにおいしくても、嫌な輩が造っていれば取引はしたくないですし。そこで働く蔵人が面白く、楽しく、真面目に、働いていなければ、ちょっと距離を置いてしまうかもしれません。現地ワイナリーのワインを彼らの代表として日本で売るのですから、取引が決まれば自分もワインメーカーの一員となって、できる限り、すべてのことを家族のように支える。このワイナリーのためにはここまでできる、という強い気持ちでワイナリーを選ぶので、簡単には決められないです」
「SHUNABE」は現在、5つのワイナリーと契約し、輸入交渉から通関業務、引取り、顧客に届けるまでの一貫した業務を行っている。実店舗を持たず、直輸入のワイン、現在庫数約1万5千本の低温倉庫を配送センターとし、日本各地に届けている。
「ワイン会では、ワインを紹介しながら知識や味わいを伝えるだけでなく、同時に音楽や映像で食・衣服など人々の文化・生活をとりまく、あらゆるものを紹介するイベントです。お客様の日々の生活に彩を加えられるような、情報発信の場、交流の場として、ワインを通した、人のつながりを大切にしています」
日本の地で、ニュージーランドのワインのおいしさを、たくさんの日本人に伝え続ける阿部氏に、感謝の意を表する。
阿部 俊(業務執行責任者兼ワインインポーター )
SHUNABE| シュナベ
ニュージーランドワイン輸入業専門|酒類販売業・輸入業・卸売業
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