「秋風と母」尾崎士郎(青空文庫より)

(中略)

 夜になって母の発作はよほどおさまりかけた。然し、彼女は烈しい疲れのために寝そべったまま身体を動かすことが出来なかった。その寝姿を見詰めていると私の眼の前に迫りつつある母の死を思わないではいられないのだが、静まったあとで母は何時も口癖のように、あんなときにはほんとうに誰れか来て殺してくれればいいと思う、と言うのである。その言葉は私の胸を突き刺す、何故かといってこのうす暗い三畳の室で朝から晩まで小さい自分の身体を持てあましながら寝そべっている母の生活がどうして彼女の死以上のものであると言えようか。彼女の余生の中に残されているものは一つもないではないか、数年前まで、母は兄の家にくらしていたのであった。そのころ兄の家は郊外のひろびろとひらけた平原の一角にある村落のはずれにあった。ある夜数年ぶりで私はその兄の家を訪れたのだ。私はそのころ下宿屋から下宿屋を流れわたってくらしていたのであるが、兄は、――彼もまた就職の途を失って田舎から持って来た偽筆の書画や、やくざな家財道具を売ってくらしていた。建付けのわるい格子戸をあけてはいってゆくと兄が真蒼な顔をして出てきた。彼の眼は何か、おそろしい凶変を前にした人のようであった。

「どうしたの?」

「いや」

 と兄は口早に言っただけで次の室へはいり机の上に置いてある酒罎から冷酒を呷るように飲んでから、――

「おれは自分で自分がわからなくなった。こんな生活を誰れが一体押しつけたんだ。おれはもう少しで気が違いそうだ」

 家の中はひっそりとしていた。室の隅に床を敷いて寝ている嫂のそばに仰向いて寝ている子供は眼をひらいてじっと兄の方を見据えていたがその眼は未知の運命に対して怯えているように見えた。私がそのまま立ちあがってゆこうとすると、兄がうしろから鋭い声で呼びとめた。

「待て。――おれは今お前におふくろと話をしてもらいたくないんだ」

「何故?」

「俺の心はおふくろに対する憎しみで一ぱいになっているのだ。そりゃあ苦しい時には死にたくもなるし、実際死ぬ事ができたらその方がいいにきまっているさ。しかし、若しおふくろを自殺させたとしたら俺は一体どうしたらいいんだ。おふくろには自分の死骸の前に立っているおれの姿が見えないのかな。自分の苦痛につながりを持っている人間の姿が……」

 私は黙って兄の前に首をうなだれていた。何事が起ったかということを知った。室の中は妙にうそ寒く、私は自分の心にぴしぴしと鳴る眼に見えない運命の鞭を感じた。今、母の寝姿を前にしていると、その記憶は遠い昔の出来事のようでもあり、たった今、私の眼前を通り去った情景のような気もするのであった。その回想は私の心に何時同じことが起るかも知れないというおそれを運んでくるのだから。

 夜中に妻が私の書斎にはいってきて、母の発作がすっかり静まって、大変気持も軽くなったらしいという話をした。それから妻は声の調子を落して、

「不意に心細いことを言いだしたのよ。自分はね、死んでから葬式をして貰うよりも生きているうちに葬式をして貰いたいってね。そのことをあなたに頼んでくれと言うの。その葬式というのが、おかしいのよ。――田舎にまだ生きている自分を養ってくれた乳母とね、それからうちの尼寺の坊さん呼んでね、いろいろなものを喰べたいんですって、その話を聞いておばさんと一しょに笑っちゃったのよ」

 その話につりこまれて私も思わず笑いかけたが、急に一すじの冷たさが心の底からのぼってきた。

「いくらおそくってもね、――今年の秋までにやってもらいたいって」

 妻は明るい語調で言った。

「しかし、今年の秋までおふくろは生きているだろうかな」

 こう私はひとりごとのように言いかけて思わずどきっとした。窓越しに見える雑木林の梢に鳴る夜風の冷たさを不意に感じたからである。下の家のうすぐらいあかりが曇り硝子に沁みている。母の室から何かしら冷たい気流が流れてくるような気がする。――

底本:「尾崎士郎短篇集」岩波文庫、岩波書店
   2016(平成28)年4月15日第1刷発行
底本の親本:「秋風と母」日東出版社
   1946(昭和21)年8月
初出:「新小説」
   1926(大正15)年9月
入力:入江幹夫
校正:フクポー
2019年1月30日作成
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この記事は、ニュージーランドのビジネス系無料雑誌「KIWI TIME Vol.109(2019年4月号)」に掲載されたものです。

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